好評連載中 「地方の未来は面白い!」  作家・岡崎大五

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第1回「統一地方選に落選すると…」

 この4月、地方統一選が行われ、僕も地方のために、わが町下田のために頑張るぞ!と立候補したのだが、あえなく落選……。
 しかも13人立候補して、12人が当選するという、どこの就職試験よりも簡単そうな選挙で落選!
 地元新聞では、「地縁血縁の壁を越えられなかった!」という論評で、うれしかったのは、「どの候補者よりも正しく政策を訴えたにもかかわらず、」と評価されたこと。なるほど、地方社会は昔ながらの人間関係で構築されており、血の濃さ、人間関係の近さが、一票につながり、ひいてはそれが地域を構成するうえで、とても重要な要素になっていることが、負けてみて、身に染みてわかった。
 でも僕は、この町のために、何か仕事をしたかった。
 下田に移り住んで16年、縁もゆかりもなかったが、ただこの地の美しい海が大好きで、緑が心地よく、澄んだ空気と静けさは、人間が暮らすうえでとても大切なものだと感じていた。
 僕は二十代前半から世界中を旅してまわり、好きが高じて訪問国数は85か国に及んだ。立ち寄った町は2500以上にのぼる。日本も47都道府県、沖縄以外は車でめぐった。そんな中でも、この町下田は、格別なのだ。
 誰しもが心の中に、あるいは現実的に、格別な町を持っているかもしれない。ぼんやりと、あるいははっきりと……。
 もとより「寅さん」のように風来坊だった僕である。いくら最愛の妻を得て、この地に住み暮らし始めても、よもや16年も暮らすことになるとは思いもよらなかった。下田に暮らしていても、日々、文章を書きながら、一つ作品が仕上がると、そのたびに妻と二人で海外を旅した。どこかよそでいいところを探していたわけではないが、いつしか旅先で「やっぱり下田がいいよね」と妻と二人で顔を見合わせたりしていた。
 それだけ世界の環境汚染は、年々深刻になっており、先進国の工業国と思われがちなニッポンで、下田に限らず、日本の地方の自然の豊かさ、空気のうまさは、奇跡的ではないのかと、ここ最近は思い始めている。
 僕らが暮らすこの国は、大切な何かを忘れたばかりに、大切な何かが残されている。それがこの町、下田にはある。
 それなのに、地元の人たちはガッカリしている。とくに2011年の東日本大震災以降、急速な人口減による過疎化や高齢化、経済状況の悪化、さらには予測では最大33メートルもの高さの津波が押し寄せる危険性をはらんでおり、津波が来る前から、未来も見いだせないような絶望感にさいなまれているのだ。
 だから余計に、僕はこの町を何とかしたかった。何とかするためには、作家だけではだめだ。市会議員になるのがいいだろうと思った。昨年から地区の役員は任されるようになっており、ただ、もっと性根をすえて取り組むためには、立場も必要だろうし、経済的なこともある。そこで市議となったのだ。
 しかし残念ながら、僕は市議会議員として、市民から求められなかった。
「これが田舎選挙さ……」
 僕を支援してくれた人たちは、そういって肩を落とした。選挙とは、立候補した人よりも、応援してくれる人のためにあるのではないか。そしてより応援してくれる人の輪をより広げられた人が、当選するのだ。
 僕は、町のために立候補したと思い込んでいたし、町のために働きたいと渇望していた。その気持ちが届かなかったのは、なにより、僕は、僕を応援してくれる人たちのために、戦わなかったからではないか。まずは支援者のために選挙を戦える人材が、政治の場で、市民のために仕事をする権利を得ることができるに違いない。
 ただ田舎では、応援してくれる人たちのために戦って、当選した議員が、応援してくれた人たちを依怙贔屓する政治が、まかり通っている。そんな古いタイプの議員もいることはいる。
 ともかく、落選が決まった夜は、「どうすりゃ、いいのか、俺……」である。これでは、下田のために働けないではないか。土俵にすら上がれない相撲取りは、もはや相撲取りとは呼べないだろう?
 お先真っ暗とはこのことである。時間も深夜になっていた。外は、町の明かりも消えて真っ暗である。だいたい夜の6時を過ぎれば、季節にもよるが、商店街は真っ暗だ。日本の地方の町はどこでもそうだが、押しなべて夜は閉まるのが早い。
 真夜中の沈鬱な空気が選挙事務所を支配していたときである。
 病気をして必ずしも体が本調子ではない井田さんが、杖を片手に立ち上がった。彼は、僕の中心的な支援者の一人だ。
「どうだ? こうなったら、今度わたしが設立するNPO法人の理事になれ。議員になったら、利益相反なのでNPO法人の理事はやれないが、落選したからこそ、やれるぞ! もともと私は、はなから当選は無理だと思っていたがな。フッフッフ……」
(中心的な支援者が、なんのこっちゃね。)
 ともかく、井田さんはそう言って、不自由な手でバッグから一枚紙を出し、テーブルに置く。NPO法人の設立に関する書類で、僕の名前や住所まで、すでに印刷されている。
「給料も出してやる! だからやれ! 下田のために働きたいのだろう?」
「そりゃ、まあ」
「ちょうど、よかったじゃない」
 そんな声が、周りの支援者たちから聞こえた。
(ほんとに、ちょうどいいのか?)
 「このNPO法人では、移住促進と空き家バンクをやる。当面は空き家バンクだ。間違いなく、下田のためになるゾ」
「はー」
 僕はあんまりピンと来なかったが、とりあえず署名と捺印をした。
 この年の夏、「NPO法人伊豆in賀茂6(シックス)」が、静岡県から認可され、正式に設立された。
 僕が合流したのは、8月末からである。(つづく)

第2回「地方の町は、こうしてできている」

 NPO法人は、立ち上げまでに三か月を要する。告知期間が一か月、その後、所轄官庁である静岡県の審査に二か月である。単なるNPOならこうした手続きは不要だが、責任のある立場で仕事をするなら、法人格は必要だ。
「NPO法人が、県から認可されたぞ!」
 八月に入ってすぐに、理事長の井田さんから連絡がきた。井田さんは、さっそく下田市と、移住政策と空き家バンクをどのように運用するのか、話し始めるという。下田市は、こうした政策で、他市町に周回遅れくらいの遅れを取っていた。
 年間100万人もの宿泊客が訪れる観光地だから、人口減が目に見えにくい点はあるものの、南国らしく総じてのんびりもしているのだ。
 季節は夏の真っ盛り。そんな頃、僕はと言えば、連日、朝七時半から夕方五時まで入田浜に詰めていた。
 入田浜は、下田市内にある九か所の海水浴場の中では、中くらいの広さだが、コンクリートによる護岸工事がなされておらず、ファンの間では「ハワイのようだね」と評判の美しいビーチだ。水質は、沖縄クラスのAAランク。僕と妻が下田に移住したのも、このビーチに惚れ込んだからで、僕らの家は、歩いて10分ほどの山の中にある。
 下田に移住して15年目となる昨年、僕は地元である吉佐美(きさみ)区の理事に就いた。吉佐美区は、市内に四十ある区の中で、2000人もの人口を擁する最大の区だ(下田市の人口は2万人余)。この区がさらに7つの地区に分かれ、その地区の代表が理事である。地区はまた7つの組に分かれ、組長が組を束ねる。組長を束ねるのが理事の役割で、その上には区長と区長代理がおり、この九人で、吉佐美区の管理、事業の運営をしている。
 理事は、月二度ほどの各組長への回覧板配り、春の草刈り、5月の鯉のぼり掲揚、総代会の開催、区民による一斉清掃の監督、法人会員の区費の集金、夏季対策事業の集金、敬老の日の記念品配り(一人ひとり訪問する。生存確認も含まれているという噂…)、祭りの警備、文化祭の準備に片付け、防災訓練や津波訓練の監督、臨時総代会の開催と、毎月のように仕事があり、さらには毎月、理事会が招集される。
 こうした中、理事が中心となって、地区の陳情を吸い上げる。例えば、浜近くで夜の暗さ対策として、予算の節約から、区長が太陽光センサーライトをホームセンターで購入してきて、僕や区長代理、地元の電気屋さんが手伝って、電柱に設置した。地元の小学生の陳情も取り上げられて、横断歩道に黄色と黒の横断旗が設置された。かごは市の負担、旗は区の負担である。
 小学生の陳情まで実現するのだから、侮りがたいというか、たいしたもんである。ダメダメな話が多いニッポンの地方だが、ところどっこい、現場はなかなか頑張っているのだ。
 ただ、理事の仕事もこの程度なら、本業を持っていても何とかはなる。しかし、吉佐美区の理事は、これだけでは済まないために、市内でも「大変でしょう」と声を掛けられるほどである。
 それが夏の海水浴場の監督、運営だ。7月に入ってすぐ準備にかかり、八月の最終日曜日まで、約2か月間にわたって毎日拘束される。これなど、勤め人なら無理である(実は、この運営方法が行き詰っており、大改革が必要なのだが、その話はまた別の機会に)。
 しかも砂浜は暑い! 四十℃越えは当たり前の毎日だ。ビーチリゾートの多い東南アジアなら、ビーチボーイたちがやるような、パラソルの貸し出しと設営や、駐車場の管理などを、「ビーチおっさん」、「ビーチじいさん」が励むのだ。全員赤い野球帽をかぶり、「吉佐美区」と背中にネームの入ったブルーのTシャツ着用である。
 ビーチでは、大勢の子供や若い人たちが歓声を上げて、夏の海を楽しんでいる。それを支えているのが、地元の高齢者たちなのだ。しかも全員がやる気満々で取り組んでいるせいか、あまりにヒートアップしすぎて、ときには喧嘩になることもある。
 こうした諍(いさか)いの類を収めるのが、売上の管理と並んで、理事の最大の仕事だが、諍いは、客同士でもいろいろと起こる。昨年はこんなことがあった。
「大五さん、盗撮魔らしいやつがいるんです。僕たちでは埒が明かないのでお願いします!」
 そういって、大学生のライフセーバーが本部に駆け込んできた。
「よっしゃ、わかった!」
 僕は、赤い野球帽を目深にかぶり、砂浜を駆って現場に急行する。
「盗撮はダメでしょ」
「そんなことしていませんよ!」
 なぜかビキニ姿の中年男が、スマホ片手に怯えて見せる。
「こいつ、絶対にやってたもん! 私たちが保証するよ」
 こちらもビキニ姿の若い女性が、ぷんぷん怒って、収まりのつきようがない。
 結局、この時僕は、連携している地元の駐在さんに連絡をして、駐在さんが本署から担当を呼び、始末書で収まった。
 そんなこんなで僕がビーチで多忙な毎日を送る中、NPO法人伊豆in賀茂6は、下田市と業務委託契約を結び、九月から本格的に、空き家バンク事業が始まったのである。

第3回「NPO法人がスタートなのだ!」

 夏の海水浴場の管理業務がおわるや、僕は、日焼けで真っ黒になったまま、おニューのシャツとズボンにはき替えて、NPO法人伊豆in賀茂6(かもシックス)の事務所に通うことになった。事務所は下田の市街地の、昔から「たるや」の名前で親しまれてきた店である。たるやといえば、市内の古い人たちは知らない人はいない。川端康成作『伊豆の踊子』で、学生さんが敷島という銘柄の煙草を買った店でもある。
 そんな由緒正しい店なので、土産店にもしようと話し合っていた。
 下田は伊豆急線の終着駅だ。伊豆半島の先っぽにある町だから、当然なのだが、これは陸路交通が発達した近代以降の考え方である。鉄道や車が発達する以前は、島国日本の多くの地方都市は、船輸送が活発だったせいで、とくに東北から北陸、山陰にいたる港町は、栄えていた歴史を有する。
 下田の町も、江戸期から幕末維新にかけては、風待ち港としてにぎわっていた。吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬、アメリカ人のペリー提督やハリス、ロシア人のプチャーチンの足跡が残っている。
 下田は、日本開国の町として、あるいは上方と江戸を繋ぐハブとして交通の要衝であった。それが今では終着駅だが、伊豆南部の中心地であることに変わりはなく、また伊豆七島にも船で行けることから、最近は島旅ファンも訪れるようになっている。
 そんなこの町の地勢的な特性を生かすべく、伊豆南部、賀茂地区の六市町の物産も販売しようと考えたのだ。物品は、少しずつ集めるとして、まずは下田市と業務委託契約を結んだ空き家バンク事業が先だった。
 理事長の井田さんと下田市役所のSさんは、もう十年も前から、移住政策の事を話し合ってきたらしい。しかし下田市ではなかなか政策が実現できないでいた。それをSさんができる立場に就いたので、昨年から、Sさんの部下であるA君が移住政策に取り組み始め、今回、井田さんを通じてNPO法人で、空き家バンク事業を手伝うことになったのだ。
 地方では、公も民も、人で決まる。一人の人がやる気になれば、現実や未来が大きく変わるのだ。こういう点は、実にやる気が出ちゃうのである。
 僕はそんな場面を、東日本大震災の被災地の現場で数多く目撃した。そして、人のために働く気持ちよさも味わった。
 2010年、僕と妻は、下田市のPRのために、65日間かけて車で日本一周をした。当時連載をした『日刊ゲンダイ』では、地方の事をテーマにしたエッセイはまだ珍しい時代であった。それが、東日本大震災以降、地方をキーワードにした記事や雑誌は、かなり多く目にするようになっている。
 そうした時代の移ろいの中で、もっとも後塵を拝したきらいがあるのが、下田市の移住政策であり、空き家バンク事業だが、いったいどうするのだろうか。
 そもそも空き家は、人が住んでいないから空き家なのであって、どうやって空き家の所有者にコンタクトを取ったらいいのだろうか。コンタクトを取れなければ、埋もれた空き家は埋もれたまま朽ちていくばかりなのである。
「下田市の空き家バンクは、地域活性が主眼です。空き家がマーケットに出れば、人が動き、経済が動きます。町を再生するためには、なくてはならない事業です。そして空き家に移住者を呼び込み、人口減対策を行うのです」
 Sさんは、長年温めてきた政策が動き出すにあたって、いつも通りに朴訥な話し方ながらも、流ちょうに説明した。
「岡崎さん、下田市が調べたところでは、五百軒以上の空き家があるんです。これを掘り出すのが仕事ですからね」
 Sさんの部下のA君は、額の汗をぬぐいながら、タケノコでも掘るような恰好をする。きっとA君はヒミツのタケノコ堀り場を持っているに違いない(地元の人は、タケノコやウナギ、魚やアワビ、クリなど自分だけの秘密の場所を持っていたりする)。
「そこで、まずは各区長さんに当たってもらおうと思うのです。すべての区長さんが、地域の空き家を把握しているわけではないでしょうが、すでに回覧板でチラシを回す手はずはできています。今週には、各区長あてに、岡崎さんが訪問する旨、手紙も出しておきますから、よろしくお願いします」
 Sさんは、なかなか準備が良かった。
「でも、各区長っていえば、全部で40人もいるよね」
「そうですよ。そこを全部岡崎さんに回ってもらうんです。岡崎さんの手腕にかかっているんですからね。よろしくたのんます」
 A君とはこの時初対面だったが、Sさんとはこれまでも、国際交流事業で一緒に仕事をしてきた仲である。きっと僕のことは、SさんからA君に伝わっていたのであろう。
「40軒かあ・・・・」
 僕は外を見てつぶやいた。
 まだまだ残暑は厳しく、真夏の太陽が照り付けている。僕の暑い夏は、まだまだ続きそうである。
「とにかく、たのんますよ!」
 A君は、まるで新しい部下でもできたように、うれしそうに僕の肩をたたいた。
 考えてみれば、市の業務を請け負うNPO法人は、行政の下っ端なのである。

第5回「空き家バンク第一号を掘り出してくる」

 NPO法人は、代表理事の井田さんと僕、それに事務のK子さん、僕の妻が遊びがてらに手伝いに来るというかたちになった。しばらくしてから経理の助っ人として、若き書道家のM美さんが合流することになるのだが、まだそれは幾分先の話だ。
 区長まわりを始めて10日。多い日で3人の方に会った。区長は地区の顔役なので、元来は生粋の地元民が選ばれることが多かったらしい。ところ実際には、半数以上が生粋の地元民ではなかった。どうやら交通の発達に比例して、人類は移動する時代を迎えているようである。そんなわかりきった現代社会の姿が、地方の町に暮らしてみると見えてくる。
 B山区長は、こんな話をしてくれた。
「俺は生まれも育ちも沼津だよ、東京の大学に行って、それからは転勤族で日本全国あちこち回った。親父が亡くなって、俺も定年退職。親父の家があったから、こっちに来ようかとなったんだ」
「そうだったんですね。てっきり地元の方だとばかり思ってましたが」
「地元の民だけでは、もうなんともならんよ。地縁血縁はたしかにあるが、かなり薄らいでいる。なんでも昔は、選挙のときには、地区ごとで入口に松明を焚いて、よその地区の他陣営から攻め込まれんように一致団結したそうだ。まさしく地縁血縁を守ろうとした……」
「そんな話、聞いたことがあります。4、50年前まではそうだったようですね」
「ところが今では、俺のような、よそもんが区長さ。だから、空き家調査と言っても、知らない家ばかりでね」
 空き家バンク事業が始まったことは、回覧板で回ったが、まだ一軒も登録がなかった。
 地縁血縁が強ければ、「なぜ代々引き継いできた家をないがしろにするのか」と親戚筋がお叱りの声が出るそうで、地縁血縁が弱くなれば、今度は空き家はあっても、連絡先がわからない事態に直面していた。
「そうだ、すぐそこに古民家があるのんだがね。どうも売りに出されているようだ。見に行ってみたらどうかね」
 僕はB山区長の話に小躍りし、バイクに跨り、田園風景の中を逆戻りする。
 すると、竹林の間に、威風堂々たる古民家があった。
 しかも玄関先には、連絡先や売り値段まで表示してある。不動産屋さんは介在していないようで、持ち主(T村)が、家に貼り紙を貼って、堂々と売り家宣言しているのであった。
 通りから入ったところに位置していたので、貼り紙までは見えなかったのである。
 僕はとりあえずスマホで写真を取ると、一目散に事務所に戻った。
「おかえりなさーい! どうでした」
 K子さんが、いつもどおりに笑顔で迎えてくれる。
「ついに空き家を見つけたよ。空き家バンクに出してくれるかどうか、わからないけど、連絡先がわかったから、所有者に電話してみる」
 K子さんは、息を詰めて僕のスマホに注視する。
「もしもし、T村さんのおたくですが?わたしく、下田市の空き家バンク事業をやっております、NPO法人の……」
 まずは空き家バンクの何たるかを説明しなければならない。不動産屋さんとどう違うのか。手続きはどうなるのか。売買の場合、最終的には司法書士さんに所有者の移転登録手続きをしてもらうが、基本的には本人同士の契約となる。その分、売買金額も安くなるが、現状引渡が鉄則となる。たとえ、見えない部分で破損等が見つかっても、元の持ち主は責任を負わない。
 T村さんは、85歳だよと言いながら、かくしゃくとした話しぶりだった。
「わかった。お宅で登録するよ。必要書類を送ってくれ。死ぬまでに、どうしてもこの家だけは処分しておきたくてな」
 そしてT村さんは、カギの隠し場所を教えてくれた。
 翌日、僕とK子さんは井田さんを伴って、T村邸に行った。築150年の堂々たる古民家である。鍵を開けて中にはいった。
 するとなんと、竹が2本、畳を起こしてある床の下から真っ直ぐに伸び、天井でぐにゃりと曲がっていた。
 バタバタバタ……懐中電灯を照らすとコウモリの群れだった。
 僕とK子さんは、口をあんぐりと開けた。
 こんな状態でも、空き家バンクに登録できるのだろうか。
 井田さんが床に座って、持っていた杖で、太く見事な大黒柱を叩いた。
 コウモリが驚いたのか、2階でワサワサしているような音が届いた。
「こんな材は、今ではもはやないだろう。これが一般住宅だったら、かなり手入れが必要なので、登録は見送るところだが、古民家に限っては、十分要件を満たしておる。値段次第だが、市場価値は十分にある」
 井田さんは一級建築士なのである。黙々と図面を書き始めた。
 よく見ると、梁にも立派な一枚板がはめ込まれている。室内は古民家の典型的な田の字型で、縁側の先にトイレがあった。トイレは洋式である。
「大五さん、空き家バンク第一号を掘り出してきちゃったって、感じですよね」
 K子さんが、タケノコを掘るような恰好をして言った。
 そうなのだ。
 空き家バンク事業とは、まずは空き家を掘り出すことなのである。
 そしてきっと、同時に人の過去や、家や家族の経緯(いきさつ)も、掘り起こすことになる。
 ただ今回、T村さんが、なぜこの地を離れ、家を売りに出すに至ったのかまで、電話口で話すことはなかった。

第6回「ほんとにここに洋上風力発電所が建つのだろうか?」

 9月に入ると、下田の海は、夏の喧騒はどこへやら、すっかり人が少なくなる。NPOの空き家探しで、バイクを駆って下田中を走る毎日の中、ふと見る海は、穏やかでとても気持ちいい。
 こうした時期から、サーファーや地元の海好き、欧米人が目立つようになる。インバウンド政策で外国人旅行者が確かに増えたが、まだ京都や東京、大阪ほどではない。ミシェランのガイドブックで★★をいただく下田だが、その昔から、アメリカ人とフランス人の比率が高く、伊豆急線の欧米系外国人利用者のうち、8割は下田で降りるという。やはり海の美しさが彼らを呼んでいるのだろう。
 できたばかりのNPOでは、ホームページの作成や、店で売る商品の開拓、各種書類を作成するなど、事務担当のK子さんは、連日大忙しだった。
「のんびりするためにこっちに来たのに、こんなに忙しいなんて。しかも旦那は三食家で食事をとるでしょ? もうやんなっちゃう!」
 僕が事務所に戻ると、K子さんが訴えた。
 彼女は、東京の会社に勤めていたとき、毎日地獄の東海道線で通勤していた。しかも三十年に渡ってである。しかし、今はそんな地獄はないものの、予想はずれの忙しさに、戸惑っているようである。彼女はまだ田舎に来て二年目なのだ。
「田舎暮らしは、忙しいってこと、知らなかったな」
 理事長の井田さんは笑って言った。
 そうなのである。家の周りの草刈や、地域の仕事、季節ごとの行事など、意外にやることが多いのだ。人によっては。畑をしたり、薪を割ったり、薪ストーブの煙突掃除をしたり……。しかも外食よりも家で食事をとる習慣である。僕もK子さんも毎日弁当持参であった。僕の場合も、僕が妻と二人分を作っているのだが……。
「ところで、さっき海を見てきたけど、9月になると、俄然きれいになるよね」
「へーっ! そうなんですか。それは知らなかったです。でもダイゴさん、あんなにきれいな海に、ほんとに洋上風力発電所が建つんですか? 最近話題になっているでしょ」
 K子さんが言った。
「僕はもちろん反対だけど、どうだろう。今、ネット上では反対運動が盛り上がってきているけど」
 日本はエネルギーを化石燃料に頼り切っている。東日本大震災で、原子力発電に「?」が付いてしまって、太陽光発電が加速し、今度は洋上風力発電を積極的に導入しようという国策が動き出したのである。
 その余波が、僕の住む町にもやってきたのだ。
「この美しい海を守りたい!」、「子どもたちに大事な自然を残してあげたい!」、「それより、日本のエネルギーをどうするんだよ!」、「別に伊豆じゃなくたって、いいじゃない!」、「自分だけよければそれでいいのか!」
 ネット上では、感情的なやりとりがヒートアップしていた。僕はなるべく冷静なコメントを寄せて、沈静化につとめた。相手が国策である以上、感情論では太刀打ちできない。単に反対するのではなく、どのように戦うか、戦略が必要なのだ。しかし、まだそこまで機は熟していない。
 洋上風力発電は、日本ではまだ商業ベースで稼働していない。テスト運行されているだけである。今後、モデル地区を選び、商業化、事業化を推進していく構えだが、伊豆はモデル地区の候補にも上がってなかった。
 今から三年前の2016年には、高さ10メートル以上の防潮堤建設案が、静岡県から提出された。この時、僕は、地元で反対の声を上げた長老たちの姿勢を広めるべく、SNSで反対の賛同を集めた。すると下田の海に来ているサーファーたちを中心に、「いいね!」の輪がまたたく間に広がり、集めた署名は1万3000人にも及んだのである。
 今回は、防潮堤建設の時ほどに議論は白熱していなかった。できれば、変に白熱してほしくないというのが、静かに暮らしたい大半の人の思いであろう。反対運動を通して、僕はそんなことも感じた。
 だから今回、「大五さんはどうするんですか?」と前回のことを知っている人からSNSでの運動を打診された時、「自分でやるつもりはないよ」と答えた。
 結局、防潮堤の建設は、主権を持つ地元の区が反対でまとまった。防潮堤を建てる前に、避難路を整備することで県側も納得、防潮堤建設は中止となった。
 それでも避難路建設には、国も県も市も、ほとんど予算を出していない。地元の地権者が土地を無償提供し、地元の人たちが手弁当で階段や手すり、避難場所等を整備している。巨大なコンクリートの壁で海と陸上を遮ることは可能でも、わずかの予算で作れるはずの避難路建設には、なぜ予算が出ないのか。結局、防潮堤建設予算は、どこに行ってしまったのか。一般市民にはよくわからない。
「いったい、今回はどうなっていくのだろうね?」
 僕は思案げに答えた。
「最近は災害も多いし、洋上風力は技術的に耐えられるのかなあ。そう言えば、台風が来ているでしょ。怖いですね」
 K子さんは震えてみせる。
「明日、災ボラの会議があった。7時からだったな」
 井田さんが呼応した。
 井田さんは、伊豆南部地域の、NPO法人災害ボランティアコーディネートの会の理事長も兼務しているのである。(次週に続く)〈noteにて連載〉

第7回「災害が持つプラスの力とは?」

 2019年9月9日に千葉県を中心に襲った台風19号では、5万戸以上の家屋が被害を受けるなど、凄まじいものだった。伊豆でも、風による被害が散見された。屋根が飛ばされたり、壁がえぐり取られたり、倒木は山間部のいたるところで見られたらしい。
 しかし今回、我が家ではさほどでもなかったし、下田市内でも、被害は千葉のように広範囲ではなかった。伊豆では2004年に来襲した台風22号のときのほうが、はるかに猛烈だった。この時は、伊豆半島の突端、石廊崎で最大瞬間風速67.6m/sを記録したのだ。
 我が家は森の中にあるのだが、この台風の時、雨戸の隙間から見る木々は、右に左に、地面がつかんばかりのところまでしなり、まるで童話の世界のように生き物さながらである。
 風はうなりあげ、雨が激しく森を叩いた。近くの入田浜からは、風で巻き起こった大波が、まるで地鳴りのように轟き崩れ、白波が、風に舞って視界を白くするほどだった。
「この家、だいじょうぶかしら」
 夕方にも関わらず、雨戸を閉じて真っ暗な室内で、妻が不安そうな声を上げた。
「木があんなにも揺さぶられているのよ」
「我が家は、眺めがさほど良くなくてよかったね」
「どうして?」
「だって眺めがいいってことは、風の通り道になるだろ。屋根なんか、吹き飛ばされちゃうよ」
 事実この時、伊豆半島の伊東では、見晴らしのいい場所で、甚大な家屋の被害が続出したのだ。
 台風通過は、わずか一時間程度の間だったが、僕たちは、家の中で肩を寄せ合って過ごした。
 そして嵐が過ぎ去ると、家々のまわりを点検に向かった。
 すると、倒木で道路は寸断されている。そこで翌日には、近所の人々が総出で、丸一日かけて、車だけは通れるようにした。
 災害があまりに大きいと、個人の力だけではどうすることもできない。多くの人の力が必要になってくる。
 僕はこの災害のおかげで、そのことを痛感し、また、それまで全く見ず知らずだった近隣の人たちと知り合えて、この土地に馴染む地ならしができたのである。
 移住した翌年の出来事でだった。
 まさに雨降って、地固まるの例えどおりだ。
「移住者の方が、空き家制度を使って移住されることが決まりましたら、まずは区長さんのところに、一緒にご挨拶にうかがいますから」
 空き家バンク事業を進める中で、僕は移住者の立場から、このように地元の顔役の人たちに説いて回った。
 移住者とはよそ者で、欧米では、ときに外国からの移民だったりする。日本でも外国人労働者の多い町など、既存の日本人住民と外国人のニューカマーとの間で、軋轢は起こりがちである。「マナーを守らない」、「ルールを破る」は、日常茶飯に言われる非難の言葉だ。
 しかし、ルールを知らないことも実際多いし、マナーを守らないというのは、相手を知らないばかりに起こる誤解だったりもする。
 移住者にしてみれば、地元の誰に挨拶すればいいのかわからない。災害でも起これば、知り合うきっかけとなるものの、そこまで大きな災害がそうそう来るものでもない。
 だから空き家バンク事業では、NPOがそのパイプ役、接着剤になろうと思い立ったのである。区長たち地元の顔役に紹介することで、彼らを後ろ盾、相談役にして、地元に馴染んでもらうのだ。外国人でも、日本人でも、こうした最初の一歩が、ボタンの掛け違いによる相互不理解を避けるには肝心なことにちがいなかった。
 外国でも暮らしたことのある僕としては、居心地のいい暮らしとは、後ろ盾を得て、まずは近隣の人たちに自分のことを理解してもらうことだった。
 バンコクで暮らした時は、同じアパートの一階で駄菓子屋を営むおやじが、その役割を自然に買ってくれ、おかげでアパートの住人たちに僕のことが知れ渡り、宴会にも参加するようないい仲になった。
 さて今回の台風である。
 10月には台風19号に見舞われ、この時も我が家は大したことがなかったが、入田浜が高波で、ビーチの砂が1メートル以上もえぐられて、大きな被害を受けた。
「ダイゴさん、どうするんです? このままじゃ、あまりにひどすぎるでしょ。市はどうしてくれるんですか?」
 昨年、近所に越してきたばかりの雑貨屋の店主が言った。
 僕は、浜の担当者として、現状を見てから区長に相談し、区長はすぐさま、市にも報告、それ以前に、市長もすでに視察に来てくれていたらしい。区と市の修復役割分担の話は、かなり早くに決定した。
 しかし、ゴミの片づけは誰もしてくれない。頭の痛い問題だけが残った。
 僕は雑貨屋の店主に相談してみた。
「どうだろう? みんなを集めてゴミ拾いをやろうと思うんだけど」
「だったら、僕はSNSで仲間のみんなに広めますよ」
「じゃあ、僕は地元とサーファーとライフセーバーに声をかけるよ」
 そして一週間後、100名以上の人たちが集まり、ゴミ集めが始まった。
 僕はその光景を見て、十数年前の台風一過のことを思い出していた。
 この作業で、どれだけの人の輪が広がったのだろう。

第8回「森の生活」

 僕は21歳で海外に出て以来、たまに日本に帰ることもあったが、二十代の大半をアジア諸国で暮らした。三十歳を過ぎてから、本格的に帰国したのだが、その時の大問題は、「することが何もない」、すなわち仕事がないことだった。
 そこでしばらくは、日雇いの肉体労働をしながら糊口をしのいでいると、イスタンブールで一緒だった旅の友が、電話でこんなアドバイスをくれた。
「君なら、海外専門の添乗員ができるんじゃない? 英語もできるし、海外経験は豊富だし、なにより遊びに長けているからね」
 なるほど、遊びに長けてしまったからこそ、仕事のキャリアという世間の物差しには当てはまらず、することがなかったわけである。しかし、海外に遊びに連れていく添乗員なら、これぞ本望というか、本職以上に本職になれそうな気がした。
 そして気が付くと、数年後には、海外専門の添乗員として、年間250日以上は旅の空の下にいる暮らしぶりとなっていた。しかも、ツアーで連れて行くお客がまた面白い。ツアーのよもやま話を連載していた旅の雑誌『旅行人』に掲載したら、これがウケて、しかも旅行人が出版社に発展する時期に遭遇し、運よく僕の『添乗員騒動記』が出版されて、これがのちに角川文庫になると、ベストセラーになるという奇跡が起きた。
 次々と出版依頼が舞い込むようになり、せっかくなので、作家らしくどこかで静かに作家業に専念したい。好きな女性もできたことだし、一緒に暮らそうと、下見に訪れたのが、毎年夏になると遊びに来ていた伊豆の下田なのだった。
 夏の間、友人と遊びに来た時に、偶然気に入った物件を見つけた。森の中の一軒家で、入田浜まで徒歩十分である。2003年のバレタインデーの日、不動産屋さんに連れられて、彼女のN子と二人でこの家を見に行った。夏も空き家だったが、冬になってもまだ空き家だったのだ。
「この夏ミカン、食べてもいいですか?」
 N子が不動産屋さんに聞く。家の庭には夏ミカンの木が三本植わり、たわわに大きな黄色い実を付けていたのだ。
「いくらでもどうぞ。こちらにお住いになったら、食べ放題ですよ」
 N子の頬がホクホク揺れた。
「スッパーイ! だけどおいしい!」
 N子が小躍りしている。
「こんな酸っぱいのって、今どき東京では売ってないわよ。甘いミカンばかりなんだもん」
 日本のフルーツは、いつからか、甘さ一辺倒が美味しさの基準に成り果ててしまっている。
「海までも歩いてすぐだし、この空気も気持ちいい!」
 N子は胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
 彼女は幼いころ小児喘息を患っていた。今でも時々喘息の咳が出る。
 僕も胸いっぱいに空気を吸い込む。
 体を構成する細胞という細胞が、喜び、弾けるように、肉体が漲った。全身が喜んだ。
 人生にとって、本当に大切なものとはなんだろう?
 世界中を旅して回って、新鮮な空気がここ数十年で失われているのを肌で感じた。ほかにもグリーンあふれる森や、美しい海、青い空……。かつては当たり前にあった地球上の豊かな自然が、急速に刈り取られているかのようだ。
 ところがそれらがここには残されている。
「どうだい、一緒にこの家で、暮らすのは……」
「いいよ」
 それまで別々に暮らしていた僕たちは、こうしてこの町、下田の郊外にある森の中で生活し始めたのである。
 毎朝、ヤマガラの可愛らしい鳴き声で目を覚ます。
 N子が、ベランダに出て、ヒマワリの種を指で摘むと、ヤマガラが「ツツピー、ツツピー」と鳴きながら飛んでくるや、彼女の指に止まって、種を口に加えて、近くの枝に飛んでいく。そして両足で種を押さえつけて、種の%

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