在タイ企業の人件費がじわり増加 転換期迎えたタイの社会保険・退職給付

タイ政府は、高齢化の進展と賃金水準の上昇を背景に、企業と労働者の負担構造や社会保障の枠組みなどを大きく組み替えようとしている。社会保険料算定の賃金上限を1995年以来据え置いてきた月1万5000バーツから、2026年以降3段階で2万3000バーツまで引き上げ、老齢年金や傷病手当などの給付水準を底上げする。一方で、退職・解雇時などに一時金を支給する「従業員福祉基金」が2026年10月に本格始動し、賃金の0.25%ずつを企業と従業員が拠出する仕組みが動き出す。連続して導入される二つの制度改革は、在タイ企業の人件費と人事戦略に中長期的な見直しを迫ることになりそうだ。
社会保険料算定賃金の上限を段階引き上げ
26年から3段階で2万3000バーツへ
タイ内閣は2025年12月2日、民間労働者を対象とする社会保険料算定の賃金上限を段階的に引き上げる省令案を承認した。これにより、2026年1月1日から社会保険制度における各種給付水準の底上げが本格的に始まることになる。
現行制度では、保険料を計算する賃金の上限を1995年以来、月1万5000バーツに据え置いてきた。このため、賃金が1万5000バーツを超える被保険者からは、それ以上賃金が高くても拠出額・給付額が変わらず、実勢賃金に見合う給付を受けにくいという不満が出ていた。また、この間に最低賃金や平均賃金は大幅に上昇し、現在の日額最低賃金の上限は400バーツに達している。物価水準の上昇や国際労働機関(ILO)第102号条約が示す基準との乖離が大きくなったこともあり、政府は高齢化の進行を踏まえた制度の持続可能性強化を目的に見直しに踏み切った。
社会保険料の拠出率は賃金の5%で据え置かれるが、拠出額を計算する賃金レンジが見直される。現行は月1650~1万5000バーツの範囲を対象としているが、新制度では賃金上限が3段階で引き上げられる。第1段階は2026〜2028年で算定賃金の上限を月1万7500バーツに、第2段階の2029~2031年は2万バーツに、2032年以降の第3段階では2万3000バーツに引き上げる計画だ。保険料率5%の内訳は、例えば被保険者2.5%、雇用主2.5%、国庫0%など、合計で5%になるよう配分される。
賃金上限の引き上げに伴い、上限に達する被保険者の自己負担も段階的に増える。現在は賃金上限1万5000バーツに対し、被保険者の拠出上限は月750バーツとなっているが、第1段階では875バーツ、第2段階では1000バーツ、第3段階では1150バーツへと上昇する。雇用主側も同額を拠出するため、企業の人件費負担もそれに応じて膨らむことになる。
一方で、被保険者にとっては拠出額の増加と引き換えに給付水準の向上が見込まれる。老齢年金や傷病手当、失業給付などの算定基礎となる賃金が上がることで、将来受け取る給付額が底上げされるためだ。具体的には、第1段階が始まる2026年時点で、傷病や失業、障害時の所得補填給付の月額上限は、現行の7500バーツから8750バーツに引き上げられる。老齢年金も拠出期間に応じて増額され、拠出期間15年のケースでは月額年金が3000バーツから3500バーツに、25年拠出では5250バーツから6125バーツへ上昇する見通しだ。中間層以上の被保険者にとって従来的には「掛け金に見合わない」とされてきた給付水準が、実際の賃金水準に近づく効果が期待される。
制度全体でみれば、拠出額の増加は社会保険基金の収入基盤強化につながるが、雇用主側、とりわけ中小企業にとっては人件費負担が段階的に増すことから、収益力の低い企業では経営を 圧迫するとの懸念も根強い。 今回の社会保険料算定の賃金上限引き上げは、タイの社会保険制度を高齢化社会に対応させるための初期的な改革とされている。もっとも、長期的な制度の持続性を確保するには、賃金上限の引き上げだけでは不十分との見方も多い。今後は、保険料率そのものの見直しや退職年齢の引き上げ、給付設計の再検討など、追加的な制度改革を巡る議論が本格化する可能性が高い。
タイ従業員福祉基金が2026年10月に開始
企業負担は賃金の0.25% 納税と同等の扱いに
タイでは、労働者の退職・解雇・死亡などに備えた新たなセーフティーネットとして「従業員福祉基金(Employee Welfare Fund)」制度の導入準備が進んでいる。基金の法的根拠は1998年制定の労働保護法に盛り込まれていたが、長らく未施行であり、近年になって具体的な政令・省令が相次いで整えられた。
従業員福祉基金は、雇用終了時や死亡時などに一時金を支給し、従業員の生活安定を図る目的で設計された強制貯蓄制度。対象は原則として従業員10人以上を雇用する事業所で、既に企業型確定拠出年金や確定給付型退職金制度など、一定水準以上の福利厚生制度(プロビデントファンド等)を導入している事業所については、重複負担を避ける観点から適用除外とされる。
当初は2025年10月1日から拠出開始とする政令が公布されていたが、その後の経済情勢や最低賃金引き上げの影響を考慮し、2025年8月の閣議決定により拠出開始時期は2026年10月1日へと1年先送りされた。ただ、拠出率は変更されず、導入から5年間は従業員・使用者とも賃金の0.25%、その後は0.5%へ段階的に引き上げられる。
2026年10月1日以降、従業員福祉基金の適用対象となる企業は、次の義務を負う。①対象従業員を同基金に登録すること。②従業員賃金から0.25%を毎月控除し、基金へ拠出すること。③同額0.25%を企業負担として拠出すること。従業員負担分と企業負担分はいずれも、翌月15日までにまとめて納付しなければならない。
同基金は、解雇・会社都合退職だけでなく、自己都合退職や定年退職、死亡したケースも支給対象となる。支給水準や条件は、従業員福祉基金委員会が定める規則に基づき、勤続年数や賃金水準に応じて設定される予定だ。既存の社会保険(SSO)による失業給付や退職金制度を補完し、特にプロビデントファンド未加入者や試用期間中の従業員に対する最低限のセーフティーネットとして機能させる狙いがある。
一方で、使用者側の義務不履行に対しては刑事罰も用意されている。従業員から控除した拠出金を基金に納付しない、あるいは企業負担分を支払わない場合には、6カ月以下の禁錮または1万バーツ以下の罰金、もしくはその両方が科される可能性がある。労働保護法上、従業員福祉基金に対する債務は、税金と同等の優先弁済権を持つ「優先債務」と位置づけられており、企業の資金繰りが悪化した場合でも、他の債務に先立って支払う必要がある。
日系企業を含む在タイ企業にとっては、2026年の本格施行までに、既存の退職給付制度やプロビデントファンドとの二重負担を避けるよう制度設計を点検し、適用除外の可否を確認することが重要だ。併せて、給与計算システムの改修や就業規則・雇用契約の見直し、従業員への制度説明など、実務面での準備を前倒しで進める必要がある。
